社長プロフィール
1974年3月28日、福岡県福岡市東区奈多という町で生まれました。
両親が離婚して父方の祖父母に育てられた私はいつもおばあちゃんについて回るおばあちゃん子でした。
祖母は地元では有名な人気者で、本当に人付き合いが好きな人で、必ずどこかでおしゃべりしてたの覚えてます。
そんな祖母はとにかく人に何かを与え、どこに出かけるにも何かを持っていき人に何かをあげては喜んでいるばあちゃんでした。
ある時おばあちゃんに誘われて貝掘りに行った時、バケツいっぱいになったあさりをうちで食べる分がなくなるまで嬉しそうな顔で近所の人に配って回っていたことを覚えています。
食事を作るのが苦手で、500円を渡されて近所の久留米ラーメンをよく食べに行ってました。
その久留米ラーメンが自分のラーメンの原点です。(後うまかっちゃん笑)
ばあちゃんが作る食事はあまり美味しくないので、「ラーメンでも食べてきんしゃい」と言われるのが、本当はとても嬉しく最高のご馳走でした。
家は裕福ではなかったのでよくお金の事でじいちゃんと喧嘩をしてたので、とにかく喧嘩をやめてほしい一心で、笑ってもらおうと喋り続けて喧嘩を止めてました。
小学校の自分を一言で言うなら、仕切りたがりのお調子者。
野球が好きだったので勝手に友達の打順と守備を決めて、日が沈むまで野球をやっていました。
ちなみにその時の宛名はキャプテンです。
中学に入って素行が悪くなり、高校の受験を受けずに15歳で実家を出て働き始めたのですが、ペンキ屋、大工、石屋、何をやっても続かず、一緒に住んでいた先輩が東京に行くことになり、16歳の終わりに実家に戻って、一か月ほど無職でずっと実家にいました。
このままじゃだめだ、何か働かなくてはと思い、ふいに新聞の求人欄を読んでいたところ、「あなたも百万円稼げる」というキャッチフレーズと「寮完備」の記載に惹かれ、何の仕事をするのかも分からず、石川県が日本のどこにあるのかわからないまま福岡からやってきました。
福岡から石川に行く当日大好きなばあちゃんが家の玄関に立ち、「人に好かれるよう頑張りなさいよ」と言われ、涙が出るのをこらえて家を出ました。
会社に着くや否や鬼の部長から何百文字と書いてある紙を渡され、「明日までこれを覚えてこい」と言われ、こんなに頭を使ったことがないほど頭を使いました。
次の日「よし言ってみろ」と言われ、覚えた文章を途中詰まりながら言うと「本当に覚えてきたのか」と意外な言葉が返ってきました。
途中詰まりながら言うと本当に覚えてきたのかと意外な言葉が返ってきました。
それからの日々は、会社に行くと怒られる、お客様にも「いらないよ」と断れられ、散々な日々でした。
ある日くたくたに疲れた夜の9時、誰もいない公園のベンチで横になって星を眺めていると悔しさや情けなさなどで号泣してしまいました。
ほとほと泣き疲れると自分の中である決意をしました。
それは「絶対に1件契約する」ということでした。
その頃、若い社員が入社しては辞め、入社しては辞めて行きました。ベテランの社員さんからは若い子には売れないよとよく言われていました。
1日300万円、400万円のものを売る営業の仕事で、若い人には説得力も信頼がないのです。ましてその頃の自分は17歳、とにかく絶対にやると決めたらやる!!毎日やることはシンプルです。
営業件数を誰よりも多く回ること。
質より量。”技術より心”。
目標は前の日より1件でも多く訪問することです。その時学んだことは『覚悟』。すべては選択の結果、人生の主人公はいつも自分です。
そんな毎日を送っていたある日80代のおじいちゃんの家で初めて契約が取れました。
「この子は何を言ってるかわからないけどとにかく一生懸命だから何かこの子から買えばいいんじゃないか」と思って購入したと、そのおじいちゃんがおっしゃっていたと後から聞きました。
ものを販売してこんなに喜ばれる、全力でやれば結果が出る、ということにすごく魅力を感じ、それが自分の客商売の原点となっています。
起業のきっかけ
その時、勤めていた飲食店の社長から突然の引退宣言があり、途方に暮れてしまったのを覚えています。
「自分の大好きなものはなんだろう」
と考えた時に映画と野球、それとラーメンでした。
当時は週5食はラーメンを食べるほどのラーメン好きだったので、一も二もなくラーメン店を考えました。
本当に極貧だったのですが、ラーメン店開業に向けてひとつだけ強い決意がありました。
どんなことあっても、自分が本当に美味しいと思えるものが完成するまでは開業しない。
実はそれがとてつもなく過酷なことで、どうやったらスープが美味しく炊けるのか、試行錯誤の日々でした。
本当に灰汁は美味しくないのか、灰汁を飲み、豚頭の脳みそは本当にまずいのか、脳みそを生で口に運び、気持ち悪くて吐いたことを覚えています。
1ヶ月2ヶ月、3ヶ月となり、家賃や業者への滞納も膨らみ、現金での支払いを求められ、本当に厳しい日々でした。
ようやく「これだ!」と言えるラーメンを完成できたのは年末の12月26日。
オープン日を12月28日と定め、オープン前に友人を集めて小さなレセプションを開き開店にこぎつけました。
そしてオープン当日、宣伝する費用もなかったのですが、なぜか開店前には行列で昼には100杯を売り切り予定より早く閉店になりました。
社員が1人の時もありました。社員が2人になり悩みを相談することにより苦しみが半分になり、喜びを分かち合ったら幸せが2倍になりました。
そして社員が3人になり幸せが3倍になり、4人になり夢が広がりました。社員の人数が幸せの掛け算であり、雇用し続けることが社会貢献になると信じています。
全力の元には本当に沢山の夢があります。まだまだ全ての夢を叶えるステージは用意出来ていません。
店舗展開することにより、小規模では用意出来なかった自己実現のステージを店舗展開により可能性を広げられる会社を目指していきます!